電話応対でCS向上事例

-指導者級 養成講座 特別授業 レポート-
電話リテラシーの社会史~電話のマナー教育は、何を伝えたのか~

記事ID:C20003

8月12日(水)から14日(金)の3日間、「第26回電話応対技能検定(もしもし検定)指導者級養成講座」が、東京・神田で開催されました。その講座での「電話のマナーはどのようにして生まれたのか。また日本の電話応対教育はどのように培われていったのか」をテーマとする坂田 謙司立命館大学教授の特別授業をレポートします。

通信インフラの主役が「電信」だった時代に「電話」が誕生

  • 特別授業講師 坂田 謙司氏
    立命館大学産業社会学部教授
    研究対象は「音と声のメディア」で、電話を使ったコミュニケーションの歴史に造詣が深い。

     授業の冒頭、坂田氏はご自身の研究テーマいついて軽く触れたあと、「電話がどのように誕生したのか」について簡単に紹介しました。
     「1876年、アレキサンダー・グラハム・ベルが電話の特許を取ったことが、“電話の始まり”とされています。もちろん彼だけが電話の研究をしていたわけではなく、さまざまな人が科学や電気に関する研究をしていて、その中で最初に特許をとったのがベルだったというわけです。実は当時、世の中で一番多く使われている通信インフラは電信でした。今で言う電報のようなもので、通信文をオペレーターがアルファベットと数字を表す電気信号に換え、遠隔地に送るというものです。電話が登場する直前には、この仕組みを使う電信機を簡易化して家庭に置く寸前にもなっていました。そしてこの電信のケーブルを使い音声で会話する仕組みこそが、電話なのです」

「非対面のコミュニケーション」が電話の普及の障害に

 しかし電話の普及は思ったように進みません。それにはいくつかの理由がありました。
 「電信には通信文を電気信号に翻訳するオペレーターが必要ですが、電話はオペレーターを介さなくても会話できます。そっちの方が便利に思えますが、そうではなかったんです。まず電話は、当時の人が体験したことのない『非対面のコミュニケーション』でした。当時は階級社会で、相手がどんな人か、身なりで判断して会話する時代でした。しかし電話ではその相手が見えない。しかもこの時代の電話には交換手が必要で、電信を届けるメッセンジャーの若い男性がその役割を担っていました。ところが電話を利用するのはもちろんお金持ち、上流階級の人々です。つまり普段は話すことがない上流階級と労働者階級が、非対面で会話するわけです。利用者である上流階級の人々は交換手のぞんざいな対応に『なんだこいつは。口の利き方も知らない。もう使わないぞ』と憤慨しますが、交換手は『そんなこと知ったこっちゃない』と思うので、気持ちよく使うことができない。加えて電信は通信文がそのまま記録になりますが、電話での会話を記録するには、メモ書きする必要があります。そうしたメモ書きの習慣がなかったこの時代、電話をビジネスに使うことは面倒だと思われたようです。さらに当時の電話機は壊れやすかったのです。もちろん、電化製品というものが家庭になかった時代ですから、乱暴な扱い方で壊してしまうことも少なくなかったでしょう。これらの課題により、電話の利用はなかなか拡大しませんでした」

女性電話交換手が評判となり「電話=女性の仕事」が定着

 しかし、1878年に転機が訪れます。それはある電話会社が、エマ・ナットという女性を交換手として採用したことでした。
 「この時期、産業の発展により中流階級が生まれていました。つまり家族全員が働かなければならない労働者階級と、働かなくてもいい上流階級の間に存在する階級です。中流階級では、父親が働き、母親は専業主婦になり、働く父親をサポートするという役割に専念し、子どもも同じような価値観で教育します。エマ・ナットはまさにこうした中流階級で育った女性だったのです。女性としてはじめて電話交換手となった彼女は、丁寧で母親的やさしさのある応対は、利用者である上流階級の人々の間で評判となりました。そして利用者のなかには、わざわざ彼女を指名して交換を依頼する人も現れます。そこで電話会社はこぞって女性を電話交換手に採用することになります。これが“電話交換=女性の仕事”として定着するきっかけになったのです」
 一方、電話会社は利用者同士のマナーの啓蒙にも努めます。なぜなら、利用者が気持ちよくコミュニケーションできることが、電話の利用拡大につながるからです。
 「電話の使い方として『丁寧な会話を心がけましょう』『道で会ったときと同じように電話で話をしましょう』と利用者に訴えかけました。まさにこれがマナー教育の出発点なんです。そうした内容をわかりやすくイラストや文字で表現したチラシを配ったり、新聞広告を出したり、そして電話帳にも掲載しました」

日本では「官営電話交換手」のマナーやルールが基本に

 日本には、ベルが特許を取った翌年、1877年に電話機が輸入されます。そして1890年には、東京と横浜の間に電話が開通しました。
 「日本では電話は官営、つまり国営ではじまりましたが、企業活動用のいわゆる内線電話には、私設電話が認められていました。当初は日本でも電話交換手を若い男性が務めますが、やはり海外と同じような問題が起こり、すぐに全員女性に入れ替わることになります。その後、1891年には電話交換手の採用規則が作られ、交換手になるためには官営電話、つまり国営の電話会社の採用試験に合格することが条件となります。そのため、私設電話と呼ばれた企業の内線電話の交換手は、そうした官営電話の交換手を辞めた人の再雇用や、好条件により官営電話から中途採用した交換手により占められることになります。官営電話というのはお役所ですから、内部で規格化された話し方、応対ルールを定めていました。東京弁を使い応対するというのも、その一例です。こうした官営電話の交換手としてトレーニングを受けた経験者が企業の電話交換を担当するようになることで、官営電話のルールが企業にも広がり、標準化された『電話応対のマナー』が定着していくことになるのです」

戦後の混乱期を経て、電話交換手は国家資格として人気に

 日本の電話網は太平洋戦争により大きな被害を受けますが、終戦後の復興とともにその再構築が進められます。
 「戦後、進駐軍が日本に入ってきて、まず政府に要求したのが電話網の再構築と英語のできる交換手でした。英語は戦時中“敵性語”とされていましたが、英語ができる人は意外に多かったんです」
 そして復興により経済が上向いてくると、民間企業にも電話の需要が高まってきます。
 「多くの交換手が必要とされたこの時期、これまでの仕組みはもうなくなっていましたから、企業は経験者、未経験者の境目なく採用を進めました。これにより、戦前は官営電話を発祥として統一されていた電話応対のマナーやルールが再びばらばらになってしまったのです。この流れを変えたのが、1952年の日本電信電話公社設立と、1953年の公衆電気通信法施行です。この法律では企業内の私設電話を『構内交換電話』とし、その交換業務を行うのは日本電信電話公社の構内交換取扱者資格試験の合格者に限ることとしました。こうして電話交換手は国家資格となり、希望者を多く集めることになります」

電話会からユーザ協会へ。電話応対教育の対象も拡大

  • 授業の風景

 ただ国家資格となったことで、弊害も生まれました。それはこれまで実務で経験を積んだ人も、単に試験に合格しただけの人も、同じ資格保持者として扱われることになり、応対技術に差が生まれることになったのです。
 「電話交換手は会社にかかってきた電話を最初に受ける“企業の顔”であり、その応対技術の優劣はそのまま企業のイメージに直結します。こうした優劣をそのままにしておくことに危機感を覚えた地域の企業は、共同で『電話会』と呼ばれる団体を結成し、電話応対技術の向上と交換作法の統一化を目指すことになります。そして1956年には、各地の電話会を束ねる形で『全国電話連絡会』が創設され、全国の電話交換手の言葉づかいやマナーをあらためて一元化していくことになります。これが現在まで続く日本における電話応対マナーの基礎となっていくわけです」
 全国電話連絡会はのちに、現在のユーザ協会の前身である財団法人日本電信電話ユーザ協会となり、構内交換取扱者資格試験の試験対応と教育を一手に引き受けることになります。そして1983年に交換手の国家資格が廃止されてからは、民間の技能検定として、交換手だけでなく、一般社員をも含んだ電話応対教育に取り組むこととなります。ユーザ協会の電話マナー教育は、このように日本における電話の歴史と密接な関わりがあるのです。

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