ITコーディネータが考える「使えるICT」 Vol.23

【BPRでライバルを蹴散らした印刷会社の秘密(1)】
―開戦前夜―

井門 良貴氏井門 良貴氏株式会社ウィルコ代表取締役。第1号ITコーディネータとして制度設立に関わる。東京大学法学部卒業。日本IBM在籍後、独立系コンサルタントとして活動。あらゆる業種の大企業から中小企業の経営改革に関わってきた。

前回まで、さまざまな要因によって情報共有が容易ではないことをICT活用の失敗リスクとして述べてきました。今回からは新シリーズとして、筆者が経験してきた革新的なICT経営の事例を、ITコーディネータの視点からドキュメント的に紹介していきます。その企業はどのような経営課題を抱え、ICTによって、どのように経営改善を成し遂げたのか──。シリーズ初回は「BPRでライバルを蹴散らした印刷会社の秘密」です。

1.印刷業界の勢力地図

この話は、今から約30年前、1980年代終盤の「印刷業界」が舞台となります。当時の印刷業界は、これからますます斜陽産業になるだろうと考えられていた時代です。書籍や雑誌などの売上は徐々に減少し始め、一方でICTの発達によってビジネス文書の印刷は小型プリンターによる内製化が進み「ペーパーレス」が声高に叫ばれていました。

印刷業界はそれ以前より、A社とB社の2強寡占状態が続いていました。中でもA社はもともと政府機関の払い下げから始まった半分役所のような古い体質の長い歴史を持つ会社で、B社は純民間の比較的新しい会社でした。

筆者がA社グループに関わり始めたころは、実績としてはB社のほうが常にA社を上回っていました。その理由の一つは、企業としての動きが、B社のほうが圧倒的に“身軽”だったからだと思います。言い換えれば、「変化」に対して柔軟な姿勢を持っていたと言えるでしょう。

一方、A社は、変化を嫌う古い体質が、後塵を拝し続ける状況を固定化させてしまっていたと言えます。

30年前の印刷業界の競合関係

2.当時のICT世界の趨勢

その当時、システム業界で最大のバズワードはSIS(Strategic Information System:戦略的情報システム)でした。ICTを単なる効率化の道具として用いるのではなく、より広く経営戦略を実現するための兵器として用いるという考え方で、現在で言う所の「IT経営」と同じ意味の言葉です。

SISは、1985年にコロンビア大学のチャールズ・ワイズマン(Charles M. Wiseman)教授が提唱した概念で、それまでのMIS(経営情報システム)などの考え方を発展させたものです。成功事例としては、アメリカン航空(当時)のオンライン座席予約システム「SABRE(セイバー)」が挙げられ、日本でも1980年代後半から90年代前半にかけて流行しました。

アメリカン航空が、このセイバーを用いて10%以上シェアを伸ばすことに成功したことをきっかけに、多くの企業経営者の関心の中心となり、当時のICTベンダーの提案書の表題にも必ず「貴社SISのご提案」という文字がおどっていたものです。

ただ、アメリカン航空ほどシステムと業績向上の因果関係が明確な事例は多くはなく、実際には「何でもかんでもSIS」というのが現実でした。


3.A社グループの状況

当時筆者は、世界的ITベンダーI社の2年生。1年目の厳しい営業研修をようやく終え、フィールドに出たばかりの新人営業として、主にA社グループを中心に先輩の手伝いをしていました。その中で強く感じたのが、同社は会社全体としての「動きが遅い」ということでした。

前述したように、変化に対して鈍重で、必ずしも望ましいとは言えない環境の中で「何かのんびりしているな」という印象が強かった記憶があります。例えるなら、会社というよりも諸手続きだけを淡々と行っている役所を訪れているような感覚が常に頭に残っていました。いろいろな問題があるにもかかわらず、業務の進め方、組織力の観点でも、積極的に改革しようという雰囲気はほとんど感じられなかったのです。

今でこそA社は、業界内でも「変革」を推進し続けている企業へと進化しています。あらゆるものがデジタルでつながり、解析された膨大なデータ自体を新たな価値として創造していくデジタルトランスフォーメーション※に注力し、自社開発のICTソリューションに積極的に挑戦し続けています。しかし、30年前はそのような革新的な面影は一切なく、きわめて保守的な印象しか持てませんでした。


4.AM社との関わりの始まり

当時A社グループには、AM社という関連会社がありました。配送伝票などのビジネスフォームを専門とする会社で、カナダの世界的に有名なメーカーとの合弁会社でした。ライバルのB社では、本体でビジネスフォームを扱っていたので、A社+AM社がB社に相当していました。AM社は外資との合弁ということもあり、グループ内では少し毛色の異なる会社でした。そのAM社を、筆者が担当することになったのは本当に偶然でした。

同社は元々先輩社員が担当していたのですが、客先の勘気をこうむって出入り禁止になり、言わば押し付けられた形で担当することになったのです。きっかけは冴えないものだったのですが、初めて一人で任されたお客さまということもあり、やる気満々で営業活動を始めました。

当時AM社は、私が勤めるI社にとって、小型のメインフレームが1台入っているだけの小規模顧客で、すぐに商売になりそうなネタがあるわけでもなく、新人営業の修業先としては格好の会社と言えました。営業素人の身としては特別なテクニックがあるわけでもなく、とにかく自分のことを知ってもらい、可愛がってもらえることを目的として、毎日足しげく通っては傾聴を繰り返す日々を送りました。前任者の印象が悪かったことがかえって幸いし、すぐに可愛がってもらえるようになりました。そのうち、お客さまから仕事上の不満なども漏らしてもらえるようになり、それらをまとめていろいろな部門に対して小規模な提案書を提出し、それなりに評価してもらえるようにもなりました。

そのプロセスで印象的だったのは、A社本体とは全く雰囲気が異なっていたことです。AM社は筆者のような若造にも、困っていることや問題となっていることを積極的に話してくれたり、意見を求めてきました。危機意識を明確に持ち、現状を打破していきたいという意気込みというか、とにかく「何とかしなければ」という意識を強く感じることが多かったのです。ここには、A社本体では感じられなかった「変革」への情熱があったのです。

だからというわけでもないですが、筆者は1週間のほとんどをAM社のどこかの部署で過ごしていました。おかげでほとんどの社員の方々と友達になり、会社の隅から隅まで知ることができ、何をどうすればこの会社が良くなるのかについてのビジョンを自分なりに持つこともできました。まだ具体的なビジネスにまでは至りませんでしたが、経営層の方々ともそれなりの対話をすることができるようになったのです。

5.そして、戦闘開始に向けて…

上記のように、機能的には「B社= A社+AM社」だったので、B社の決算と、A社とAM社の連結決算が競争上の比較の対象となります。そして、その競争結果は長年にわたってB社が上回っていました。

しかし、その状況に対して逆転を図ろうとする動きが湧き起こったのです。しかも、その動きが起こったのはA社本体ではなく、子会社のAM社だったのです。

(次回に続く)

  1. ※デジタルトランスフォーメーション:2004年にスウェーデンのウメオ大学のエリック・ストルターマン教授が提唱した「ITの浸透が、人々の生活をあらゆる面でより良い方向に変化させる」という概念。
↑
PAGE TOP